学生時代に1億円以上を稼いだ孫正義の「ブルドーザー営業術」

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通信大手3社の09年9月中間連結決算が出揃った。その中で唯一増収増益をはたしたソフトバンク孫社長。万年3位だった旧ボーダフォンを一変させた手法の源流を探った。

通信大手3社の2009年9月中間連結決算が9日、出そろった。収益の柱である携帯電話事業が不振だったNTT、KDDIは減収減益となる一方、携帯事業が好調なソフトバンクは増収増益だった。

 同社は契約の新規加入者から解約を差し引いた純増数でも、4〜9月に約68万件で首位だった。四半期ベースで見ると、純増数トップの地位を10四半期連続で守っている。

「携帯業界でナンバーワンになる」と常々口にしていたソフトバンク孫正義社長。万年国内3位に甘んじていた旧ボーダフォン日本法人を約2兆円で買収したのは06年4月だったが、思い切った料金プランやCM中心の広告戦略が的中し、いまやその勢いは本物になりつつある。

 日本を代表する経営者として世界的にも高い評価を受ける孫氏だが、氏の若かりし頃の話は意外と知られていないようだ。抜群の営業力と行動力で学生ながら1億円以上の大金を手にしたエピソードを聞けば、現在のソフトバンクの成長も頷けるかもしれない。

 話は1973年に遡るが、その年、孫氏は毎年東大合格者を多数輩出する久留米大学附設高校に入学した。しかし1年生の夏休みに参加した英語研修ツアーで米国に魅せられ、2年生になる前には退学し、渡米。フランシスコの高校を卒業した後はホーリーネームズ大学に進学し、そこですば抜けた成績を残した後、1977年にカルフォルニア大学に編入する。

 大学卒業後は日本に帰国する予定でいた孫氏だが、日本の企業に就職するつもりはさらさらなかった。事業を営んでいた父親の影響もあり、起業の意思を固めていたのだ。卒業後にスムーズに起業するには学生のうちに軍資金を貯めておかなければならないと考えた孫氏は、資金をどうやって作るか頭を悩ませた。

 普通の学生のようにハンバーガーショップなどでバイトする選択肢はなかった。学生としてしなければならない勉強もたくさんある中で、時間をかけた割にはたいした額は手にできないからだ。大学で猛勉強を続ける中で資金作りにかけられる時間を算出すると1日たった5分。「この5分を有効利用してできることは何か?」と頭を悩ませた。

 考えた末、思いついたのが「発明」だった。特許をとれば大金を手にできるはず、と考えた孫氏は、1日ひとつ発明すること自分に課し、浮かんだ発明の中から最も優れたモノを絞り込みビジネスにすることにした。そして毎日発明する時間なると、5分後に目覚まし時計をセットし、極限まで集中し、発明を搾り出した。

 最終的に発案した250ものアイデアの中から選んだのが音声付き電子翻訳機。海外旅行中に外国人と話す時に、電卓のように日本語で「駅マデノ行キ方を教エテクダサイ」とキーボードで入力すると英語やフランス語に同時翻訳され、声になって出るという機械だ。

 しかし決めたはいいものの、一人だけでプログラムを書き、設計していては卒業までに間に合わない。そこで孫氏は校内から専門家たちを集めプロジェクトチームを結成することにした。ノーベル賞受賞者を多数輩出する大学だけに優秀な研究者や言語学者には困らなかった。コンピュータ学部の教授を中心に電話をかけまくり、熱心にリクルートした。だがそのアイデアには興味をもった教授たちも「忙しいから」と断られてしまう。それでも先方に報酬を支払うことで合意を取り付けた。もちろん手持ちの現金はなかったが、試作機ができた時点で日本の会社に売り込み、その契約金を成功報酬として支払うことで納得してもらった。こうして一流の教授たちを口説き落とし、孫氏は自らの発明を商品化するための最強のチームを結成した。

 ほどなくして出来上がったのが世界初のポケットコンピュータのハードウエアの原型で、そのソフトが英語とドイツ語の二ヶ国語を相互に翻訳できる機械だった。孫氏はこれを連絡のとれたキヤノン東芝など20社近くからシャープに狙いを定め、大学の夏休みを利用して日本に帰国し、同社の担当部長と交渉を行った。

 しかしその反応は予想以上にきびしいものだった。「作品としては面白いけど、実用化は難しい」と断られてしまったのだ。せっかく米国からはるばる帰国してきたのに、手ぶらで帰ることはできない。教授たちへ報酬を支払い、何よりも自らの起業資金を作らなければならない。

 そこで決裁権のある人間に直接、交渉することにした。すぐにシャープのオフィスの近くにあった公衆電話ボックスに駆け込むと、弁理士協会に電話し、シャープの電卓事業担当の弁理士の連絡先を聞き、その弁理士にかけあってシャープのキーマンである専務を紹介してもらった。

 その専務は孫氏と会った時に、まずその若さに驚いた。そして次にプレゼンを受けた試作機に感心した。「日本のソフト業界の将来のためにもこうした人材は貴重だ」という思いを持った専務は契約を決めてくれた。

 契約金の2000万円を持って米国に戻った孫氏は、プロジェクトメンバーの教授たちに契約に成功した件を報告し、報酬を支払った。その後作品は、フランス語など5ヶ国語に対応できる翻訳機にバージョンアップし、シャープから世界ではじめてのポータブル翻訳機「IQ3000」として売り出されることになる。こうして学生時代の発明により、後のソフトバンクを起業するための資金、1億数千万円を手にしたのだった。

 卒業後、日本に戻り、アルバイト2人と起業した際に「いずれは何兆円規模の会社にしてみせる」と宣言した孫氏。当時は周囲から呆れられた孫氏だが、学生時代の勢いそのままにブルドーザーのように道なき道を切り開いてきた結果、いまやソフトバンクグループは800社にまで成長している。