今回の原子力発電の問題についての雑想・雑感

最初に断るが、脈絡はない。まとめることができないくらい、いろいろ思うとところがあるからw

この前の朝ナマが的確だった。政治関係抜きで学識経験者だけを集めてやった。中でも飯田哲也(てつなり)とか、御用学者の先鋒的、石川 迪夫 (みちお)とか、面白い話が聴けるなと思うメンバーだったが、案の定だった。

それはともかくとして、田原総一郎が1976年に著した『原子力戦争』が面白そうだと思う。というのは、書いた本人が、最近発言していることだが、「あの頃となんにも変わってない」という体制というポイントが実に興味深い。

結局のところ、原子力の事故とその対応などに見る政府や官僚の動きは、実は大東亜戦争(←これが正しい名前「第二次世界大戦」には入れてもらえてないw「太平洋戦争」は俗称)当時(つまり旧帝国憲法下)の軍・政府・官僚の動きと何ら変わりはない。
これは、最近NHKなどがよくやる特番で見るが、最近出てきた証言や資料によって、当時、どうして日米開戦に至ったのかという話がよく出てくる。この場合の「いったん動き出したら誰も止められない」というメカニズムが原子力村にもあると言えるのが「朝ナマ」(番組開始54分付近)で飯田が発言した。政府・官僚・財界とアメリカの思うように小さな事柄をひとつひとつ原子力村に都合のいいようなシステムを長年かけて構築してきたというのが事実だと思う。その際、何もかものデータを原子力に都合のいいようにデッチ上げてきたのは誰もが知るところ。

そもそも、原子力そのものについては、もちろん研究すべき分野ではあるが、それはちょうど京大の原子炉実験所がそうであるように、発電とは無縁の医療や物理学分野での基礎研究などの話であって…

反対派の言い分は、「たかが発電(日本のエネルギー政策のほんの一部分)ごときで、こんな人間に制御不可能なものでやるべきではない」というのが要旨。賛成派の言い分は、「資源に乏しい日本にとっては不可欠な安定的エネルギーである」という点だが、これについては反対派の反論は山ほどあるのは周知の事実。

このときの朝ナマで面白いのは、イタリアのジャーナリストが言った話で、独、伊が原発廃止を決定した。これはどちらも国民投票で決められたことで日本には国民投票がない(もしあれば日本も反対多数になるだろう)。それはともかく、この話で「日・独・伊」と来るのは単なる偶然ではなかろうということ。もともと当時、植民地に乏しく、戦後、原発というエネルギーが欲しかったことも共通の課題だったとは思う。


3/11から始まり、3/12には爆発した原発事故だが、このときの政府の情報隠蔽体質は、まさに先の戦争での大本営そのもので、どれだけ嘘をつき、隠蔽し、すぐ後でバレたとしてもパニックを回避すること優先という政府の体質がわかりやすかったことはない。

鶏が先か卵が先かの論理でいけば、この政府・官僚体制が最も悪いと思う。もうちょっとマシ(リベラルでフラット)な政府があれば、原発をやってももう少しなんとかなったのではないかと思う。少なくとも今回の大地震と大津波とフクイチの事故は回避できなかったとしても、3/11の夕方には原発から80km圏の人間は避難勧告なり、屋内退避なり、その後の避難なりしたろうと思う。汚染地域の周辺住民の被曝を見殺しにしたその「国家体制のありよう」は、あの1986年の「ソ連」と何ら違いはないどころか、まだあちらのほうが「当日の朝、否応なしに大量のバスで強制避難させた」事実があるだけマシだし、汚染地域の線量と避難基準が動かないだけマシで、日本は科学的根拠なしで政治的思惑だけでいくらでも基準を変えるというおバカな政府であるだけ日本のほうが後進国家だと言える。

私が当時、大学の一般教養で「科学論」という講義があり、教科書は『日本のマルクス主義科学論』というタイトルからして??なものだった。中身で記憶しているのは茨城の鹿島港の浚渫問題と、今は廃炉になった東海原発の問題だった。今でもその教科書や講義の趣旨すら理解できてないw 出席して試験を受けたのでCはもらえたがwww

世の中は科学と経済と政治がいつも絡むが、それぞれの立場が自分たちのことばかり考えているのが日本だと思う。科学者は、政治の間違いを指摘できなければいけないし、政治は経済をコントロールして最終的に国民が潤わなければいけない。政治家は票ばかり気にして官僚は天下り先ばかり作ってそこに金を流し込むことばかり考える。これが日本…というか人間のやる罪だと思う。人間はそもそもそういうものだから、そういう国家にならないように、いろんな部分で歯止めになるようなシステムを構築してきたのが近代国家なのであり、それば無理なら専制君主独裁国家のほうがまだマシだとも言える。近年の例で言えばこれまでのリビアベネズエラがそうだし、ボリビアキューバもそんなかんじだが、これらに共通して言えるのはキューバを除き、資源が豊かでエネルギー(石油)や鉱物資源(レアメタルなど)を輸出することでけっこう潤っているということだ。キューバ社会主義革命を成功できたのは、その「資源に乏しい貧乏な国家」だったことだろうと思う。チェ・ゲバラキューバが安定した後、ボリビアの民衆が追従せずそこで処刑されて人生を終えたのはボリビアが意外に豊かであって民衆が蜂起しなかったことにあるようだ。

日本が貧乏で資源が無いのに民衆がさほどに蜂起しないのは地形的・交通・通信手段的にそれぞれの地域が孤立しており、大きな力になりにくかったのかと思う。それをなんとかしないといかんと最初に考えて実行しようとしたのがたぶん織田信長だと思う。明智があんなアホなことしなければこの国ももうちょっとマシな社会だったろうといつも思う。浅井も死なずに済んだろうし、秀吉が狭い了見で長続きしない統一国家を作った挙句に徳川が「戦が無く、壊れない国家」に特化したために閉鎖的で進歩ができない社会になり、それが現代につながる「お上には逆らえない」という国民意識を長年にわたり社会構造として植え付けたと思っている。

私なりに要約すれば、日本がこんなになっちまったのは、明智光秀が織田を討ったというよりも織田信長自身の管理不行き届きで夭逝してしまったのが大原因だと思わざるを得ない部分が多々あるということ。これは坂本龍馬がもし暗殺されずに天寿を全うしたらば、日本はもう少しまともになっていたかも知れないというよりも大きいと思っている。

                                                                                              • -

以上の内容について、もう少し補足しておきたい部分がある。

それは先の戦争で、「軍部の暴走により戦争突入」と、言われ続けてきたことについて、近年出てきた資料によると、実際には少なくとも英米との戦争については軍部上層部は皆戦争回避を主張していたそうだ。山本五十六など、実際に渡米経験者だけが彼我の差を実感して少数派だったというのが今までの通説であったが、実際にはほとんど全員上に行けばいくほど戦争回避論だったとのこと。そのほうが今までの歴史上辻褄がよく合う部分が多いと考えられる。というか、現在に至る政治や行政、官僚の思考回路と結びつけやすい部分が多い。
つまり、先の戦争について、「回避不可能なさまざまなからくりが絡んでしまって回避できなくなった」という部分は原子力発電にも全く同じように言えるし、しかも戦争と違い、間違いなく起こり得る災難は起こらないかも知れないという部分があるだけに、原発反対派には分が悪かった。
いずれにしても、シビリアンコントロールが機能不全に陥ってしまう民主国家は危ないし、発展もない。ヘタな民主国家はロクなことにならないと考えたのはマルクスだろうと今にして思う。

                                                                                                                • -

別な角度でもう一点。これは「朝ナマ」でも一部取り上げていた問題だが、「技術というものは99%の安全の中からさらにその1%の危険因子を99%つぶす…の繰り返しなのだ。しかしながら日本人は絶対に安全でなければならなかった。だから、原発事故は有り得ず、だから避難訓練も事故想定訓練もしなかった」という部分。

これは私が四半世紀前頃から常に言い続けていることだが、自動車に見る日本とそれ以外の違い。「日本は技術先進国ではない」ということ。
欧米のように古く(ローマ時代以前)から馬車交通が発達し、自動車以前から交通事故は普通だった地域で、しかも機械文明はルネッサンスのあたりから普通にあり、蒸気機関も日本よりは遥かに歴史があったところと、幕末の開国まではそういう文明には触れずに来たこの国の民衆との意識の差は今もって埋めがたいということ。なんせ、日本と言えば、侍が刀刺して闊歩し、民衆の袖が触れただけで「切り捨て御免」なのだ。そりゃ、「お上には逆らうな」「お上の決めたことには黙って従え」だわw

たいていの日本人は自分の持っているクルマの故障の予兆に気づかず、また、メーカーも気づかせないように無音化してインフォメーションをドライバーに伝えないようなものを開発してきた。そして電球1個切れても「故障だ!」と騒ぎ立てる。エンジン本体が壊れるのとは全く次元が違うような些細なことでも騒ぐのは、民族的に機械オンチだからだ。

そんなレベルの民衆相手に原発の危険因子は1%まで押さえ込みましたと言っても、それでは政治家が民衆を納得させられないから「絶対大丈夫」という言葉が欲しい。何の根拠もデータも無くても、あるいは仮にあっても開示セズとも「絶対安全」の4文字を妄信するのが日本人なのだ。これが日本が機械技術文明後進国家であり、日本人が民族的に機械オンチだと言う部分である。

だから、今起こりつつある点検停止と再稼働についてのひっちゃかめっちゃかなど、絵に描いたような乱れようである。一言で言って機能不全だ。
廃炉以前の原発は、たとえ発電をしてなくても燃料の冷却もすれば管理も要る。同じだけ金はかかるのだから、点検日程以外は発電させたほうがいいに決まっている。むしろ、たいした技術的説明なしに原子炉の延命をしようとしていることのほうがよほど問題だろう。

それもこれも、日本と欧米の違いという意味で深い部分がある。日本は震災以降、内閣、ひいては首相の無能ぶりを糾弾し、災害対策そのものを政争の具に貶めているような部分があるが、それにつけても、誰だからダメだとか、誰だったらいいのか? など、名前や出所、ひいては世襲とかばかりに囚われて、何を言っているのかとか何を考えているのかに無頓着である。だから誰々が絶対安全で大丈夫だから…などとまるでネ申の護符のようなもののように有難がる。実際はそれがたいしたことでないのも知っていながら、例によって「お上に逆らうとろくなことがない」などという封建制度の因習に囚われている。これは狩猟民族を祖先に持つ欧州人とは全く違う水田耕作をする農村社会をルーツに持つ日本人の典型的な民族意識だと思う。正しいとか間違っているとかはどうでもよく、周囲と違うことを言わないということが特に大事なのだ。ここから現代社会の構造の原因を織田信長夭逝説にすっ飛ばすのも論理の飛躍だと思うかも知れないが、どうしてもそこにひっかかってしまう。